社会福祉法人成仁会について

ごあいさつ


2011年3月11日の震災により、当法人傘下施設が被災しました。これまでお寄せ頂きました数々のご支援、ご声援に対しまして、深く御礼申し上げます。

また、利用者の方々ならびにご家族の皆様には不便をお掛けしましたことをお詫び申し上げます。社会福祉法人成仁会の被災した当時の様子と、被災後について下記にご紹介致します。

何卒、今後とも格別のご支援を賜りますよう宜しくお願い申し上げます。

会長  山崎 シゲ

理事長 山崎 和彦

東日本大震災からの歩み


会長 山崎シゲの思いとは

どんなことがあっても、会長山崎シゲの思いにゆるぎはなかった

3月11日、東日本を千年に一度の大震災が襲った。海の街である大船渡で、海と共に生活してきた市民の皆さんは、市内の多くの避難所で、寒い夜を迎えた。

震災翌日、会長は職員にすぐ指示をだした。IBCラジオを通して困っている市民の皆さんに「富美岡荘を活用してください。困っている方、高齢者の方、どうぞお越しください。」と呼びかけた。そして、通信も寸断されていたため施設に入所されている皆様のご家族へも全員の無事を発信した。

施設には、もちろん生活されている入居者様、震災当日デイサービスをご利用された皆様も宿泊、すでに避難されてきた市民の皆様がいた。法人の職員も、何人も自宅も流され、家族の安否も確認できない人もいた。普通なら、職員そして、今ご利用の利用者様の今いまの生活を支えるべく必死になり、行動するが、山崎シゲ会長は違った。「すべての大船渡市民を助けたい。困っている人を何とか一人でも多く助けたい。手を差し伸べて、私が出来ることを精一杯したい。一日でも早く安心した暮らしをしてほしい。」必死な想いが伝わった。まさにこれが法人の理念である「救う」の一字につきるものであると、身をもって感じた。日々願っている想いが、このような大震災がおきても揺るがないのは、心から思い続けているぶれない気持ちがあるからである。

多くの市民そして、避難所で生活するのが困難な高齢者の皆様が続々と避難してきた。受け入れ人数はご利用中の利用者様を含めて一時500人におよんだ。毎日何百食の食事を支援物資を頂きながら、提供した。暖房が安定して供給できない中、せめて温かい食事を、おいしい食事をと常に厨房に足を運び、気にかけた。

介護職員の人数確保も厳しい状況にあった。内陸や他県から多くの協力を頂き、介護職員の派遣を頂いた。施設内の空いているスペースに寝袋と食料持参で応援してくれる派遣職員に対し、会長は毎日労いの声をかけ、体調を案じた。

震災後すぐに山崎シゲ会長は業者に依頼し、投光器を借りた。命を守るために、多くの機器が必要で、多くの電気を必要とした。利用者の顔色、表情を見るためにも明かりが必要だった。不安を解消するためにも光が必要だった。震災の夜、市内は電気一つない、暗闇の街であった。そんな中、市内を一望できる高台にあった富美岡荘は、投光器の光で光を放っていた。後に聞かれた話だが、大船渡市民はその投光器の光を「希望の光」として避難所から眺めていたという。

「すべては愛から始まった」成仁会。どんな時でも、想いは変わらない。

【被害状況】

◆成仁会傘下施設の被害状況

2011年3月11日(金)14時46分
地震規模 マグニチュード 9.0 最大震度 7.0

被害状況
◆震災の概要

*大船渡市大船渡町茶屋前で事業所を構えていた
富美岡荘介護センター 全壊

*大船渡市盛町 地域密着型介護老人福祉施設
蔵ハウス大船渡 前庭まで津波到達

*大船渡市猪川町 特別養護老人ホーム
富美岡荘 建物各箇所 亀裂等被害

震災の概要

被害を免れた施設の様子

富美岡荘

特別養護老人ホーム 富美岡荘

津波の被害がなかった富美岡荘では震災翌日より、大勢の被災者が訪れた。

富美岡荘135名と祥風苑50名の定員に、一時500名を越える避難者を受け入れました。1人でも多くの市民を助けなければとスタッフ全員一丸となって避難施設としての役割に努めました。

いのちを守る施設づくり

震災から多くの被災者が富美岡荘に避難してきました。施設定員数の3倍を越える避難者を受入れ、この方々を守り抜くことができるだろうか?「すべては愛から始まる」当会の基本理念・方針に従い、富美岡荘に避難してきた方は全て受け入れる。全職員一丸となって、守り抜くことを決意しました。

震災発生直後に成仁会災害対策本部を設置し、震災後、職員とのミーティングは毎日行い、情報の共有化・支持の明確化を確実にし、職員の不安感の払拭に努めました。職員及び職員の安否確認、避難者等の記録の整備。当会嘱託医による24時間医療体制を整えました。

また、当会所有の建物を、市内で被災した民間会社様への貸借を行いました。

〜 命をまもるものとして 〜

  • 食糧 入居者以外に職員・地域住民分を考慮、最低2週間を過ごす事のできる量を備蓄。
  • おむつ・衛生用品 (アルコール・マスク等)
  • 毛布・ストーブ  入居者以外に職員・地域住民分の2倍の枚数を用意。
  • スクーター 道路の混雑時に。
  • 発電機 フロアー・ユニットに1台ずつ配置し、吸引器・暖房等の動力として活用。
  • 折りたたみヘルメット 車両等に配備し、緊急時に備える。
  • 衛生電話 固定電話・携帯電話不通時に使用。
  • 井戸手押しポンプ 市水道が止まったときに使用。
〜 命を守ることとして 〜

被害状況の把握の素早さと迅速な判断指示。
全てのスタッフが「命を守る」という明確な目的の共有。

復興に向けて

〜 全国各地からの多大なるご支援 〜

多くの有名人の方が来荘され、ご利用者様や職員に勇気と元気を与えていただきました。
また、他県の警察官や自衛隊の皆様には、24時間の巡回や物資等の運搬をして頂きました。


〜 鎮魂・復興祭 〜

東日本大震災を受け、当会主催で鎮魂・復興際を開催しました。

1200年の歴史をもつ比叡山延暦寺が開闢依頼灯し続けられている不滅の法灯。その「灯り」の分灯を受けた岩手県奥州市にある中尊寺があります。この不滅の放灯は門外不出の灯として、寺に祀られておりました。当法人の山崎会長と、大船渡前市長甘竹勝郎氏は、この「灯り」が未曽有の大震災によって、犠牲になられた皆様の冥福のため、今後復興に向かう大船渡のために、「灯」をともし、亢進したいという想いで奮闘。中尊寺寺主より、2011年9月1日に行われた復興祭で献灯頂きました。復興祭では、中尊寺の僧侶の皆様がお経を唱え、犠牲者の冥福を祈りました。

今でもこの不滅の放灯は、中尊寺にて光を放ち続け、大船渡市をそして、岩手県をお守り頂いております。

復興祭では、この会の趣旨に賛同して頂いた、秋田県の「秋田市の竿灯」、「男鹿市のなまはげ太鼓」。岩手県からは、「盛岡市のさんさ踊り」、さらには地元の「三陸吉浜の千歳明神太鼓」等、祭りを盛り上げて頂きました。

姉妹施設の紹介

成仁会グループ 社会福祉法人杜の里福祉会

ロゴ

特別養護老人ホーム成仁杜の里仙台

地震から45分後には3メートルの津波が到来し、1階部分がすべて泥と海水で埋め尽くされ、完全な孤立状態に置かれました。1999年4月開設。荒浜地区の北西に位置し、建物は海岸から2キロメートル弱の場所で、ここを選ぶとき、津波襲来の是非について「一度もない」といわれた場所でした。

▶︎ 社会福祉法人杜の里福祉会

【状況紹介】

14:46 大地震発生。大地震発生。停電のため、照明、暖房、給湯設備すべて停止。入居者の避難誘導開始。
15:01 特養1階入居者49名を2階へ避難完了。
15:11 ケアハウス利用者44名を特養2階へ避難完了(5名は外出中。)
15:30 津波到来。地盤より3mまで達する。施設の1階部分が泥と海水により完全に埋まる。敷地内が海岸より押し寄せた樹木、瓦礫に埋め尽くされ、駐車していた自動車90台が浸水。近隣の自動車も押し流されてきた。

翌日から

大きな余震が繰り返される中、点滴が必要な入居者やパニックを起こしている利用者など、さてこれからどうするか、どうやって乗り切るか、幹部職員たちを中心とした話し合いを行い、孤立してしまった状態で数日を過ごさなければならないことは確実だろうという結論となり、入居者の部屋割、トイレの使用方法を全員で決め、食材は辛うじて3日分ほどの備蓄だろうと推測されました。

しかし、この状況がいつまでつづくのか分からないため、栄養士は3日分を6日分にするつもりの量を調理ししのぎました。

籠城を決意

震災後2週間ほどで、山崎理事長は杜の里へたどり着くことができた。理事長は、全スタッフを一同に集め、職員に対して、震災時、1人の犠牲者も出さずに、避難を行ったことに対し、感謝の想いを伝えた。震災の日の不安、苦しみ、そして震災後、命を守るため、必死になって走り続けた思い、そして何より理事長と出会えた安心感で、職員の目から涙があふれた。

理事長はすぐに、復興に向けたミーティングを行い電気、水がいつ回復するかわからない状態で、仙台市内で津波の被害を免れた同業施設への入居者200名の移動について、スタッフに提案をしたが、スタッフ一同想いは決まっていた。「いつもの人間関係の中で、環境を変えてしまうとそのせいで命を縮めてしまうことになる。この命の灯を消さないよう、この杜の里で籠城して頑張る!だからこそ、理事長、新しい施設を建てて下さい!」と全スタッフが訴えた。この日が杜の里の再建を誓った日となった。

ロゴ

【状況紹介】

3月14日 施設までの道路が確保される。その後、自衛隊から食糧と寝具が届けられる。
3月15日 動力ポンプの借用がなり、地下タンクから重油のくみ上げに成功。自家発電の利用は1日4時間。
3月16日 環境保全会社へ浄化槽の汲み取りを要請。水道局に対し給水車の出動を要請。
3月17日 浄化槽の汲み取り実施。仮設トイレ設置。
3月19日 電気が通電し、各ユニットにおける深夜照明箇所と時間を決定する。
3月20日 建物の調査を実施。
3月23日 山崎理事長、短・中・長期の目標を具体的に設定する。
3月25日 財務副大臣へ要望書を提出。
4月5日 職員の勤務体制について協議し、4月中旬より介護職員の中将勤務を申し合わせた

現在の施設の環境

2015年に新築移転し、震災体験が生かされた建築設計(強靭・耐震)はもとより、1ヶ月の発電能力をもつ7回屋上に設置された発電機、防水扉付冷蔵食糧貯蔵庫(1ヶ月分の食糧を貯蔵)や暖房機器などが備えられました。また、震災体験から入居者の生活空間は2階以上に設け、2階は事務所、1階は地域交流を主としたイベント広場として活用しています。

津波被災のために孤立した介護施設で、なぜ1人の死者も出さなかったのか


1つは震災発生が夜間でなかったこと。夜勤者だけで1回の利用者を避難させることは困難だし、避難後の対応についても、できることは限られていたでしょう。また、もう1つは、職員研修の成果であること。職員一人ひとりの判断の迅速さと被災状況の把握の素早さ、それにもとづく全体への指示が明快だったことであります。利用者全員の命を守るという目標がすべてのスタッフに共有され、行動が迷いないものとなっていたことであります。

どんな状況においてもスタッフ全員がこの基本理念を年頭にかかげています。

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